原田秀俊(日本共産党前長久手市議会議員)

自己紹介

略歴

  • 1948年3月22日生
  • 1966年3月 佐賀県立鳥栖工業高校工業化学科卒業
  • 1967年5月 トヨタ自動車高岡工場臨時工入社
  • 1968年4月 名古屋市水道局鍋屋上野浄水場水質係勤務
  • 1969年4月 同春日井浄水場水質係勤務
  • 1969年4月 日本福祉大学2部(夜間部)社会福祉学部入学
  • 1973年3月 同上卒業
  • 1975年9月 名古屋市水道局退職
  • 1975年9月 日本共産党名古屋東部地区委員会専従となる
  • 1980年4月 結婚
  • 1981年1月 男子出生
  • 1982年7月 女子出生
  • 1987年4月 守山区県会議員に立候補
  • 1991年4月 同上
  • 1993年12月 愛知県委員会勤務
  • 1994年12月 尾張東部地区委員会へ転勤
  • 1996年10月 衆議院選挙愛知第7区立候補
  • 1997年12月 尾張旭市長選挙立候補
  • 1998年12月 離婚
  • 1999年4月 長久手町会議員に当選
  • 2003年4月 同上 再選
  • 2011年4月 長久手町会議員 4期目当選
  • 2012年1月 市制移行で長久手市会議員となる
  • 2015年4月 市議会議員の任期終わる

私の歩み

幼いころ


保育園年長組 5歳の夏。(右から3人目)
保育園には3歳から。第一次ベビーブームの時代で保育園が新設されたばかりでした。

1948年3月福岡県朝倉郡久喜宮村(現朝倉市杷木久喜宮)で4番目次男として出生。

私が生後6ヶ月のこの年の9月に父病死(享年38才)。父は戦争で応召され中断を余儀なくされていた義肢製作の仕事を再開しようとしていた矢先でした。

家族は、母(28才)姉(8才)兄(6才)、祖母(60才)となりました。食べるだけの水田と畑はありましたが家計が母親の細腕に掛かり、農繁期や養蚕の年4回の蚕の世話の時などは朝早くから夜遅くまで働き、農閑期は道路工事や大水害(1953年6月筑後川)の復旧工事でトロッコなどを押して働いていた姿を思い出します。

しかし、そういう仕事がなくなると、今度は近くの温泉の旅館の住み込みで家を空けることにも。祖母が母親代わりでした。小学4年生ころか年下の友達と筑後川の対岸の温泉旅館まで渡し船に乗ったりして母親に会いに行った事も思い出します。私が小学校5年生になった1959年、 母は当時としても珍しいというか特に田舎では初めての生命保険の外交員になりました。

当時の生命保険の勧誘は「俺の命を30万円で売るのか」と生命保険への理解が無く怒るご主人も多く契約を取るのに大変苦労したと後で祖母から聞かされました。

夫に先立たれて10年、姉が看護婦として働いていた病院に入院。ストレスから来た心筋梗塞で痛みに苦しみながら死亡しました。母親は金沢市(生家はお菓子屋)で生まれていて、祖母を看取ったら故郷の金沢に帰りたいと言っていたそうです。享年38才の若さで遠い九州の片田舎に眠ることになってしまいました。

残された家族は全員が、幸いな事に近くに住む叔父の家に養子縁組をして引き取られて姉は結婚まで、兄と私も就職まで子として育ててもらいました。

学生時代


1973年1月 日本福祉大学二部社会教育ゼミの仲間と。(前列左が本人)

時は高度成長のまっただ中でした。大手電機メーカーに就職していた兄からこれからは大学で勉強していた方が良いという助言もあり工業高校の化学科に進学していた私は、大学に進学することにしました。

ただ学費のこと、進路は境遇のことなど考えたら理系よりは福祉関係に進んだらという恩師の薦めもあり、夜間部で社会福祉学部のある大学を目指すことにし、日本福祉大学のある名古屋にでてお金を貯めて入学準備をすることにしました。

新聞の求人広告でトヨタ自動車高岡工場(カローラの製造が始まった年)の臨時工に応募し勤務することになりました。昼夜2交代の仕事をしながらまずは公務員試験を受ける勉強もし、名古屋市にも合格し水道局勤務に。

鍋屋上野浄水場の水質係に勤務。木曽川の上流部で採水したり、市民の飲む飲料水の水質試験に携わりました。

そうして、浄水場に勤務しながら大学受験勉強に取り組み、日本福祉大学・社会福祉学部(夜間)に合格し、職場は新設の春日井浄水場勤務になりましたが、中央線を利用し杁中にあった大学まで4年間通学しました。

大学入学後学費値上げ問題が起きて、大学自治会活動にも参加しクラス委員もすることになり、働きながら学ぶ学生にとって学費値上げは死活問題に関わると当局との話し合いの中で意見も言ったことがあります。2年生の時に地方自治について学び、3年生からは社会教育ゼミを専攻。当時、革新自治体が次々と誕生していたこともありますが、社会教育行政の住民本位の確立の必要性や、働く人々が参加し権利の拡大などに役に立つ学習内容などが求められていのではないか等々ゼミの仲間で議論したものです。

また、福祉そのものを学ぶ中で、貧乏が個人の責任ではなく資本主義社会・制度そのものから発していること。社会福祉を学ぶ中で自分の生い立ち、父が母が苦しんできた歴史の背景がよく分かりました。

大学での自治活動や職場での労働組合活動に参加して自らの学ぶ要求、労働者としての生活向上・労働条件の改善などについては傍観者の立場では解決出来ないこと。自ら参画することが必要なことを知りました。

そうして断っていた日本民主同盟に加盟することを決意しました。また、一年後の4年生の時に党創立50周年の日本共産党に誘われ入党をしました。

長久手町議会議員になるまで


1968年 名古屋市水道局鍋屋上野浄水場水質係勤務中 テレビ放映されたもの。

大学で学んだ事を生かしたいとして、郷里の町役場の採用試験を受けるも、不合格。町では上水道設置が求められていてその仕事にもと考えたらしいが、あとから聞くと共産党員であるということがわかっていたので不採用にしたとのこと。それでは日本共産党の町会議員として郷里で活動したいという思いがつのり機関に申し出たものです。ところが、 そうであれば、名古屋で党の専従として経験をつんで帰ったらということになり愛知県に住み着くことになりました。

1975年9月名古屋市水道局を退職。日本共産党名古屋東部地区委員会で赤旗の分局員として、赤旗新聞の活動に従事しました。

1975年9月1日〜1993年12月5日まで従事し、この間、1987年4月守山区県会議員に立候補しました。その後も、衆議院選挙愛知第7区、尾張旭市長選挙などにも立候補し、1999年4月長久手町会議員に初当選しました。

 

 ご意見、ご感想をお寄せください。

このページの先頭に戻る