原田秀俊(日本共産党前長久手市議会議員)

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【14.01.18】工高時代の恩師の一周忌に思う。

2011年5月29日活動レポート・閑話休題に思いをこめて。

 当時の閑話休題に加筆しました。
 2011年5月の連休中に、祖母の25回忌で帰省しました。
 その折りに、高校時代の恩師宅を訪問する事が出来ました。30数年ぶりにに会う恩師はご健在でなによりでした。
 実は、今の私があるのも、兄と恩師ご夫妻のおかげでした。
 1963年4月から、私は、佐賀県立鳥栖工業高校・工業化学科に入学しました。担任の先生が大坪先生でした。2年生になると、大坪先生は九大に国内留学となり担任を外れましたが、工業高校の授業には珍しく、工業化学英語とか、専門の化学の勉強も教材のブリントなど作ってくれる先生でした。
 私の兄は6歳上で、同じ工高の電気科の卒業で、富士通に就職していました。時は、日本経済の高度成長のまっただ中でした。工高卒の兄は、周りは大卒ばかりの職場で、これから社会にでるには大学に行かなければと、学費は俺がだしてやるから、大学に行く準備をした方が良いと盛んに勧めるようになりました。
 それで、留学から戻ってみえていた大坪先生に相談をしたところ、そうか大いに結構と先生からも勧められ、(先生は、私の他に、当時成績の良かった5〜6人に大学に行って見ないかと声を掛けられたようで、なかなか納得してくれない親もいたそうですが)5人が決意し、土曜日の午後、鳥栖から博多の予備校に通ったりもしました。
同じ杷木中出身のMさんは、3年浪人し苦労したそうですが鹿児島大学工学部大学院修士課程を卒業し、東洋エンジニアリング社に就職。、中国・ロシア等々海外プラント建設に従事するなどして活躍しています。
 私は、国立大学受験には失敗しました。その上浪人も出来ないので、大坪先生宅を訪問し相談。将来は、理系よりも私の境遇(両親とも早くに死亡)からも福祉関係の仕事に就くのが良いのではないか。学費も自分で稼いで行けるところを探した方がとなり、夜間部のある名古屋の日本福祉大学を目指すことになりました。当時の新聞の求人広告では、工業化学科の関係でいくと岡崎市の繊維会社の求人広告にも関心もありましたが、トヨタ自動車の求人広告は連日で、勢いも感じてそれで応募しました。
 叔父から巣立ちとして背広とネクタイを買って貰い久大線で名古屋を目指しました。名古屋駅に着くとトヨタのバスが迎えに着ていて豊田市に向かいました。着いた先がトヨタ自動車本社近くにある元町工場で、簡単な面接を受けて、高岡工場に行き、塗装工程に臨時工として配属されました。日給で720円でした。
当時の高岡工場はカローラが発表された後で、生産体制も整ってなく、夜勤の時にラインもストップし1台も流れて来なかったこともありましたが、11ヶ月後の退職時には錆止め塗装がされた車体がびっしりと流れて来ていました。
豊田に行った年の夏に公務員試験を受けて合格し、翌年、名古屋市に就職できました。 名古屋市水道局も拡張期で、1年後に春日井市に新しい浄水場が完成し、その為の職員・水質係として運良く採用されたようなものです。
 次の年に福祉大学夜間部に入学しました。当時は、学生運動の盛んな時でしたが、学費値上げ反対運動など経験し、共産党50周年の1972年7月に入党。夜間部を卒業し2年半後、共産党の専従になることを決意し、75年9月、水道局を退職しました。共産党名古屋東部地区委員会勤務となり、守山区の県会候補を2回経験するなどもし、現在につながることになりました。

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