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【13.06.22】母の55回忌、命日6/26日を前に
2003年5月母の記念、赤旗投稿記事再録
母に言えなかった一言
母が家に居るようになって、私が小5か6年生になってからか定かではありませんが、母が何気なく「年取ったら秀ちゃんに面倒見てもらおうか?」と言った時に、私は「面倒なんかみらん、養老院にいれる」といってしまったことを思い出します。
母が若(28才)くして夫を亡くし、私・生後6ヶ月の乳飲み子(他に姉8才・兄6才・祖母)を抱えて11年間もがき苦しんでいった母になんと言うことを言ってしまったことか。
母が、なぜ命を落とし、子の犠牲になってしまったのか。働きながら日本福祉大学で学び、友人たちと議論もする中で、貧乏は個人の責任では無いこと、社会の仕組みで貧乏が作られていくことを学びました。そして、どんな境遇になろうとも一人ひとりの人間が何の犠牲にならなくて生き抜き、人として豊かな人生を送ることができるような社会を造らない限り解決出来ないことを知り、社会変革を目指す日本共産党の一員になりました。
今、縁あって、故郷ではない町で町会議員として二期目を努めることになりました
ところで、去年、詩人の竹内てるよさんの「頬」という詩を読みました。その詩にはこう書いてありました。
「生まれて何もしらぬ吾子の頬に▲母よ 絶望の涙をおとすな▲その頬は赤く小さく 今はただ一つのはたんきやうにすぎなくてとも▲いつ人類のための戦いに燃えないと云うことがあろう(略)▲生まれて何もしらぬ吾子の頬に▲母よ 絶望の涙をおとすな
母に「一人はみんなのためにみんなはひとりのために」をモットーにこれからも頑張っていくからね。(ここまでが掲載記事です。)
(2013年6月、現在4期目途中から市会議員)
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