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【11.05.08】長久手町議・原田秀俊の古里は筑後川の北側-2
帰省先の北西にある山に登り撮影、古里・久喜宮地域です
私が育った頃は、水田と畑の純農村でした。昭和の大合併の前の1951年(昭和26年2月末)に、当時の久喜宮村、志波村、杷木町、松末村が合併し杷木町が誕生しました。
この写真の真ん中から左にかけてが1953年の大洪水に見舞われた地域です。写真の中心が筑後川です。「うららかな春の日差しを受けながら、悠々として流れ続ける、筑後川は実に平和そのものである。しかし、この平和な流れも、一度大洪水に見舞われると、様相は一変して人力ではいかんともできない、凶暴性を派付きする。その上怒濤の濁流はきまったコースをはみ出して流れる。」(杷木町史より)
左上から右にカーブして流れています。洪水時、カーブした所に怒濤の水流が直撃し、土地を大きくえぐり多数の家屋が流失しました。
杷木町史によると、
昭和28年6月下旬、梅雨前線の影響で雨量は1日の降雨量400oをこえ、時間雨量にして80oを越える所もあった。5日間の筑後川の源流部大分県の大山川流域で平均960o、玖珠川流域で880oの雨量とありました。
私の家は、堤防から300bほど北側であった。大水がでるとミナ流れといって木ぎれ等が堤防の法面に流れ着き、乾燥したら薪にしたりして重宝していた。水量が段々増加し、家のすぐ近くの道路の法面まで来たが、これ以上はこないだろうと、離れた堤防まで薪をとりにいく手間が省ける位に思っていたら、その夜中に、家の前の道路が川になりついに床下浸水。ひどいときは、材木が家の前を流れていく。家の下方は一段低くなっていたが床上浸水の被害がでた。私たちは、留守番の母ひとり残して、近くの小学校の講堂に避難した。当時、叔母の床屋さんのお客さん達が大勢避難をしていた。
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