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【11.05.08】30数年ぶりに工高時代の恩師に会う。ご健在でなにより
今の私があるのは、兄と恩師ご夫妻のおかげです
1963年4月から、私は、佐賀県立鳥栖工業高校・工業化学科に入学しました。1年生の担任の先生がO先生でした。私が2年生になると、O先生は九州大学に国内留学となり担任を外れましたが、工業高校の授業には珍しく、工業化学英語とか、専門の化学の勉強に教科書にない教材のブリントなど作ってくれる先生でした。写真は先生宅で、左から兄、私、奥様、恩師です。
(町議選挙がおわり色々片付けていたら、色あせたざら紙が出てきて、工業化学の英文が出てきて、こんな事を勉強していたのかと驚きました)
兄は6歳年上で、同じ工高校の電気科の卒業で(兄の恩師とO先生は仲が良かったそうで、私を送ったら帰る所を引き留められてお茶を頂きました)、富士通に就職していました。時は、日本経済の高度成長のまっただ中でしたが、工高卒の兄は、周りは大卒ばかりの職場で、これから社会にでるには大学に行かなければと、学費は俺がだしてやるから、大学に行く準備をした方が良いと盛んに勧めるようになりました。
それで、留学から戻っておられて工業化学科学科長のO先生に相談をしたところ、大いに結構と先生からも勧められ、(今回の訪問で判ったのですが、言い出した私の他に、先生の言われるには当時成績の良かった5〜6人に大学に行って見ないかと声を掛け、なかなか納得してくれない親もいたが)4人が決意し、鳥栖から博多の予備校に通うようになりました。
同じ杷木中から通ったM君は、3年浪人したが鹿児島大学工学部大学院修士課程を卒業し、東洋エンジニアリング会社に就職し、中国・ロシア等々海外のプラント建設に従事した。
私は、鳥取大・佐賀大を受けるも失敗し、浪人も出来ないので、O先生宅を訪問し相談。私の境遇から将来福祉関係の仕事に就くのが良いのではないか。学費も自分で稼いで行くのがとなり、名古屋の日本福祉大学の夜間部を目指すことにし、5月始めに、トヨタ自動車・高岡工場の臨時工として出てきたのでした。
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