原田秀俊(日本共産党前長久手市議会議員)

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【11.05.08】長久手町議・原田秀俊の古里は筑後川の北側

穏やかな流れも、大洪水の危害をもたらしたこともあります

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 祖母の25回忌の法事が5/4日にあり帰省してきました。小牧空港→福岡空港の往復FDA(富士ドリームエアラインズ)を利用、運賃は30600円で済みました。4日福岡空港から朝倉インターまで高速バス利用。鳥栖ジャンクション当たりで30qの渋滞で何時付く事やらと心配しましたが、お寺での読経には間に合いませんでしたが、その後の昼の会食には間に合いました。
 長姉夫婦、長兄夫婦、次姉夫婦と私の7人でしたが、祖母に一番かわいがられた末弟の私が、祖母・トメの略歴を報告し会食。終わってから、杷木久喜宮の墓参りでした。
墓参りには、次姉の3姉妹それぞれの夫、玄孫になる娘2人入れて総勢15名になりました。賑やかな25回忌になり、トメばあちゃんも喜んでくれている事でしょう。
 写真は、私が育った筑後川の写真です。5日早朝から、日の出を狙って待ち構えていたのですが、あいにくの曇り空で拝めませんでした。写真の上流の山からの日の出を待つ意味で、旧杷木町を「日迎えの里」と呼んでいます。写真の左側が北、右が筑後側です。
 流れは穏やかですが、1953年6月の大洪水の被害は甚大で、川の水流が直撃した所は、ざっくりとえぐられ家屋も多数流され、津波の被害と同じ様なことが、この写真の上流から、すぐ下流には原鶴温泉街もありますが流されました。
小学生の頃の川幅は写真の半分くらいでした。小学高学年になると川を泳いで対岸の筑後側に渡れる様に挑戦します。私は、6年生の夏にやっと渡れるようになりました。
 川では、夏はぐり石が熱くて大変でしたが、ミミズを付けた仕掛けを作りドンコ釣りに、中学生になってアユ釣りなどを習い釣りましたが、漁協の方に見つかると全部解き放たなくてはなりませんでした。早くに亡くなった父は、川釣りが上手くて、どこに行けば何が釣れるか、近所の方から聞かれていたようです。私は、ハヤ釣りなど釣り竿を使った釣りは好きになれませんでしたが、兄は釣りが上手で、獲物をおかずに。食べるとちょっとニガく食べるのも大変でした。 
 現在、川幅が広いのは、高度成長時代に川の石、砂利採取により川床が低くなったものです。そのおかげで、アユがたくさん取れていたのが、水が淀むようになり石に汚れが付着しアユの餌のコケが生えなくなり、減ったのだそうです。その代わりにウグイが多くなったとのことでした。

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