原田秀俊(日本共産党前長久手市議会議員)

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【09.06.28】母の命日、6/26日51回目でした。

「田植えには間に合うように退院できます」のハガキが絶筆に

 母が亡くなった日は、私が小学校6年生の6月26日でした。母は、姉が看護婦(准)として働いていた久留米市国分にあった国立久留米病院に入院していました。
50年前は土曜日でした。
 お昼過ぎに、秀ちゃん家から電話で「早く帰ってこんなげなばい」とまだ学校に居た私に、小学校の運動場のすぐ西側の家から呼びにきました。何事かと飛んで帰りました。病院の姉から「母・みどりさんの容体が急変した」と電話があり、急遽叔父、叔母と私の3名が、バスで1時間半掛かる病院にかけつけました。他の家族、兄は、当時佐賀県鳥栖市(鳥栖工業高校電気科3年)に下宿していて、連絡が取れず。直ぐ上の姉は、中学1年生で、学校で上手く連絡がとれず。午後6時過ぎに母は亡くなりましたが死に目にあったのが最初に病院に駆けつけた私たちだけでした。
 兄、姉、祖母達が病院についたのは、母の遺体とは病院の霊安所でした。遺体は、なぜか次の日、久留米市で荼毘に。最後に見た母の顔は綺麗にお化粧され、起きてくるのではと思えるような美しい装いでした。涙、涙の別れとなりました。
 死因は、くわしく聞いた訳ではありませんが、朝から夕方まで胸が苦しい痛いと叫び通しだったので、今から考えると急性心筋梗塞ではなかったかと思います。
 母の結婚生活は、前半の幸せな時が約10年間。戦争で死ななかった父が、戦後の復興が始まり、落ち着いて来た社会に合わせて、義手・義足などの製作する技師として再出発しょうと準備していた時に病で急死、後半は、女の細腕で悪戦苦闘の10年、兄が工高校電気科3年生であと少しで少しは楽になる前に力尽きてしまったかのような最後でした。

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